ロミログ : パールマスターのハッピーブログ

倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。

日本国が初めて歴史上に著された「三国志」の中の魏志倭人伝。そこに書かれた邪馬台国に思いを馳せて、「奈良・山辺の道」大和路散策の旅に同行させて頂いた。

京都駅よりバスにて崇神天皇陵墓~景行天皇陵墓~と遺跡や古墳だらけの中に民家や田畑があり、雲は低き山の中腹に流れ、否が応でも悠久の昔、万葉の詩が脳裏をかすめる。正に日本の原風景を観た感でした。そして幸運にも高城修三先生の説明を拝聴しながらの1万6000歩の旅でした。翌日も1万歩。飛鳥寺等先生も同行され楽しくも有意義な,日常をぽっかり忘れた2日間でした。

写真を一緒にブログに載せようと頑張ったのだが、操作が解らず何日も何日も滅入る一方、あきらめました。それにしても1800年余りも前の尊き文化遺産が案内札もなく只、民家の間の草ぼうぼうの土地の下に眠っているというのはどういうことか?

10月

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001 去年8月入居以来、やっと庭の手入れが入りました。

私は森の中に居るようで、良い、良いと言っていたのですが

いざ、手入れが入ってみると何とさっぱりと広々したことか。

庭師の手際のよさにも感動モノです。

庭がきれいになったので、家の中も心の中もさっぱりしたくなりました。

002-2

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色……

此のところ、この言葉が頭の中を廻っています。

心にかかる事が沢山あります。それらが全て自分から発生したのか?

もっと緻密な頭脳と心を持って生きて来たら良かったのかと思ったりもします。

でも嫌なことは忘れ、色々に執着もしたくない、、でやってきてしまった。

優しい人間でありたかったけど、もっと強さが必要だった。

一生はあっという間に過ぎてしまうもの。

もう先に手が届くというのに、今、自信が持てないでいる。

7月

講演会

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この頃、余り意欲の出ない毎日が続く中で、久しぶりに真珠科学研究所主催による
今年の宝石学会で発表された「光の干渉を起こさない真珠層のメカニズム、、」「1927年製エンドスコープを用いた有核・無核真珠の観察について」等々の 講演会に行ってきました。
そして今は引退して執筆活動だけをしていらっしゃる山口遼先生の特別講演をお聞きすることができました。
演題は小松先生の依頼で
※「現代の若者に読書の奨め」

始めは日本の宝飾業界について、そして本当のジュエラーとは?面白い興味あるお話が満載でした。なかなかご紹介しきれませんが
開口1番「私は後を振り向かない」から以下、私が感動し書きとめた言葉です。
・・良い宝石商・・「君子には為さざるあり」
・・「人はみかけによらない」は日本だけのことわざであり
「自分はどういうふうに観られたいか」は自分が決める。
・・2㎜の差異が大切である「神は細部に宿り給う。」・・
・・無駄に見える物ほど大切であり(ヴォルテール)、日常生活から離れる知識を、ディファレンスを作ること。
・・教養、知識と経験、無駄なことを知る。
何よりジュエラーに必要とされるものは「知識と正直さ」
「ジュエリーの本」だけでも3,000冊以上、真珠に関するもので100冊以上をお持ちだという蔵書家の先生。22歳で「御木本」に入社、36歳の時、西欧において、バイヤーとしての体験談。
常務取締役・営業本部長を経て57歳で退任。業界において永年辛口の文章を書かれ、そして70歳を越えられて今、珠玉の言葉を聞いた思いがします。

6月

この頃

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 毎日がアッという間に過ぎてゆきます。

この頃、仕事と私事が逆転して1日の大方が孫と共にいるようになりました。

それだけ私の仕事量が減ったということもありますが、何かしなくてはという焦りもあります。広く世界経済の低迷は今に始まったことではありませんが、震災の影響は納品先が津波で流されるなど、末端の私共にも回収遅延という形できています。それでもなんとか

乗り越えていかなければならないのですが、、。そして真っ只中にいる被災地の方々、放射能汚染の被害にあっている方々に笑顔が戻るのはいつのことなんだろうと、1日も早い復興を祈る毎日です。

チャリティーコンサート「故郷」~被災地出身演奏家の祈りに応えて~ウインドオーケストラ・合唱・オルガン・ハープ~ が東京オペラシティで開催された。

呼びかけ人は安藤友樹さん。以下抜粋

「~今回の震災の余りに大きな被害を知るたびに大きなショックを受け、言葉を失います。地震直後、故郷・石巻に思いを馳せながらも、被災された皆様の為に何も出来ない無力な自分に本当に悔しい思いをしました。そこで演奏に携わる自分が今出来る精一杯のことは何か~」そして4月12日付朝日新聞に取り上げられた陸前高田市の佐々木瑠璃さん(~津波で母、祖母を亡くし、祖父は行方不明~11日、自宅跡に立ち、祖母が買ってくれたトランペットで海に向かいZARDの「負けないで」を吹いた。そのトランペットを抱えて涙する写真が掲載された。)も招かれて「負けないで」等、懸命に演奏されました。会場にはお父さん、弟さんがいらしてました。最後に「故郷」を会場の皆全員で歌いました。

 演奏家、作曲家の方々の無償の協力で開催された演奏会、多分又、回を重ねられることと思います。友人に誘われて行った演奏会、私にとっても吹奏楽は思い出あるもの、心から応援をして行きたいと思いました。

4月

四季

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 枝垂れた紅梅、白梅を愛でているうち、桜が咲き今、もうこの辺りでは完全、葉桜に変わりました。我が庭の石楠花はあでやかに咲き誇っています。辺りの家々ではつつじや木連や花水木が満開です。暮らす所は違っても1年々々四季折々の花を観て「ああ.もうこんな季節なのだ」と感じられることが、私にはとても幸せに思えます。

被災地の皆さんの所にも早く緑が戻って欲しい。

 

0091

未曽有の大震災である。3月11日午後2時47分頃、私は中央区湊のビルの5階にいました。商品の納入です。揺れはかなりゆっくりとやってきました。そして今までになく永い永い揺れが続きました。私はビルの窓から橋が見えていたので、橋の上を走っている自動車を観察しました。地下もJ.Rも走っていない都会のど真ん中で、そこから家へたどり着くまでが大変でした。「ああ平河町だったら歩けたのにな~」と前に住んでいた家が初めて恋しくなりました。その間2人の娘が情報をくれて助かりました。それでも私は良い方でその日のうちに、家へ帰れました。大半の人たちは何キロも歩いて翌日やっとたどり着いたり、会社に泊まっていたようです。

翌日も私は同じ所へ商品を納め、無事仕事は済んだもののテレビを見て津波の怖さに恐れおののきました。そして原発の怖さです。それから私は一歩も外へ出ず、68カ国の海外からの救援に感激して涙し、被災地の方々の寒さ、ひもじさを思い涙しました。そして、親類や友人たちの無事を聞いてほっと胸をなでおろしました。

3月に入って色々書くことはありましたが、何を書いても心で何を思っても、虚しい気がしてブログを書くことができませんでした。電話がつながらなかったこともありますが、今日になってやっと話ができた人もおりました。

 1日も早く被災地の方々の安心を!政府、国民一致団結して復旧に努めることを心から望んでおります。神様にお祈り致します。

 

 

 

2月

鍼治療

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 火曜日15日の朝7時、足の治療(鍼)に出かけようと玄関を出たらびっくり、雪が数センチ積もっておりました。お天気のことなど考えず、布団の中でぐっすり寝ていたので雪の降る音に気付きませんでした。雪はしんししんと降るので音などはしないのですが、でも何かあの音は解るのです。此のところ、週2回の鍼治療も億劫になってきたのですが、もし、それもなくなったら殆ど外出の機会がなくなり、人混みをぬって歩いたり、都会の喧騒に我が身を置くこともなくなって、孫のお世話の毎日で終わってしまいそう。

 鍼と言えば私のお世話になっている先生は台湾の方で、40歳代のころ日本へ大学病院の先生として来日し、今は個人病院では(内科)と自宅で鍼治療をなさっておられる。アメリカでカイロプラクティックも習得し今まで、どんなに沢山の苦しんでいた患者さんたちに、喜ばれてきたことか・・ご自身を叱咤し、自身で足、腰に鍼をうちながら朝4時起きし、頑張っていらっしゃる。「患者さんが治って、喜ぶ顔が一番うれしい」とおっしゃるのだ。

 先生は、痛みの原因がどこかわかるので、今まで色々な病院へ行って治らなかった方でも、原因究明し数回で治してしまう。治療には西洋医学の先生もいらっしゃるし、日本の国内に限らず海外の方も多く来られた。しかしお歳も70代後半になり、いつも睡眠不足と疲労と戦いながら毎日を暮らしていらっしゃるのを見て、何とかならないのかなあと思ったりもする。それにしても、自分が治療に通うのが億劫だなんてちょっとでも思ったら罰があたりそう。 

 

梯久美子著 大宅壮一ノンフィクション賞受賞

硫黄島総指揮官・栗林忠道

を、読んで。

悲しいことに我々は如何に本当を知り得ないか。

 

戦局遂に最後の関頭に直面せり

17日夜半を期し 小官自ら陣頭に立ち

皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ

全員壮烈なる総攻撃を敢行す

新聞では・・とあった。しかし、実際は以下の通りなのである。

 

戦局 最後の関頭に直面せり

敵来攻以来 麾下将兵の敢闘は

真に鬼神を哭しむるものあり

とくに・・・

文章抜粋

「あまりにも過酷な戦場では怪我や飢え、渇きのなかで生き延びて戦うよりも、ひと思いに突撃して果てたいという思いに駆られる。しかも硫黄島は、勝利することも生き延びることもあり得ないとわかっている戦場である。いっそ華々しく散りたいという最後の望みを許すのが、指揮官としての〝武士の情“であるという考え方もあるだろう。しかし栗林は、この島では一兵たりとも無駄に死なせてはならぬと固く思い定めていた。」

3月17日夜

「…たとえ草を喰み、土を齧り、野に伏するとも断じて戦うところ死中自ずから活あるを信ず。ことここに至っては一人百殺、これ以外にない。本職は諸君の忠誠を信じている。私の後に続いて下さい。」との旨を述べられ同夜司令部は出撃した。

 

私は今日まで何万、何十万という多くの戦没者の方々の犠牲に目をつぶってきた。出来れば見ないで通ってきた。でもこれからは朝の祈りの中に、今日の私たちの生活は過去の犠牲の上に成り立っていたことに対し、心より感謝したい。そして今までほとんどが、報道の鵜のみだったことに対し、自身の無知さ愚かさを恥じたい。

少し硬くなってしまったけれど、友人に借りたこの本は皆さんにもお薦めしたいと思いました。